ラグビー部
2023.03.24
【特別企画】相良親子対談ーー早稲田ラグビーで過ごした親子の物語
昨シーズン『Tough Choice』を掲げ、チームを統率してきた相良昌彦元主将(社=東京・早実)。全国大学選手権(大学選手権)では惜しくも優勝に届かなかったが、準優勝にチームを導き、一昨年を超える成績を収めた。そんな相良昌彦元主将の大きな力になっていたのが、父の相良南海夫前監督(平4政経卒=東京・早大学院)の存在だ。3年前の大学選手権では監督として早大11年ぶりとなる『日本一』に輝き、退任後はアドバイザーとしてチームに関わってきた。現役時代は早大の主将も務めていた相良南海夫前監督。父、監督、そして元主将として息子にかけていた言葉とはーー。相良昌彦元主将の卒業を前に早稲田ラグビーで過ごした親子の物語を紐解く。
※この取材は3月4日にzoomで行われたものです。 相良昌彦元主将(以下、昌彦)、相良南海夫前監督(以下、南海夫氏)
息子として、父として
2020年大学選手権決勝、親子で『日本一』を手にした
――まずは昌彦選手から見て南海夫さんは父としてどんな存在ですか
昌彦 父として昔は怖い存在でした。でも今は全然怖くなくて、大学生活を通して一緒にいる時間が増えたことで慣れたと思います(笑)。幼い頃は大学生の時に比べて接する機会が少なかったので、怖がっていた部分がありましたが、普通に優しい父です。
――幼い頃は厳しく指導されていたのですか
昌彦 指導されていたことは何回かあります。僕が悪いのですが(笑)。
南海夫氏 (笑)。
――南海夫さんの尊敬する点はありますか
昌彦 大学生になってから感じたのですが、多くの仕事をさぼらずにやっていてすごいと思いました。朝早くグラウンドに来るのに帰るのが12時だったり、11時だったりして1番遅くまでクラブハウスにいるので本当に熱心に仕事しているんだなと、そこは尊敬しています。
――ここまで昌彦選手のお言葉を聞いて南海夫さんいかがですか
南海夫氏 そんなに幼いときびびらせていたつもりはないのですが(笑)。
昌彦 (笑)。
南海夫氏 普通のお父さんのつもりでしたが、確かに僕は会社にいる時もチームに関わることが長くて。家にいないことや出張も多かったです。あまり旅行にも連れて行ったことがないですね。僕自身は子供といる短い時間を大事にしていたつもりでしたが、風貌が怖かったんですかね(笑)。
一同 (笑)。
南海夫氏 うるさいことは言いませんでしたが、厳しいことを何度か言ったことがありました。ラグビースクールでたまにチームが引き締まっていないときに昌彦を怒るふりをしてみんなに気づいてほしい、みたいなこともしていたので、彼にとってはそういうのも素直に怖かったのかもしれませんね。
――先ほど旅行の話がありましたが、ほとんど一緒に外出はしなかったのですか
南海夫氏 お出かけとかは全然できていなかったので、ほとんど家で一緒に過ごしていました。それこそ近くに市営のプールがあったので、お兄ちゃんと遊びに連れて行ったりとか、家の前の大きい公園で遊んだり、そういうことはしていました。
――家では普段からラグビーの話はされますか
昌彦 んー、するかな。家で結構早稲田以外の他のラグビーの試合を見ることが多いので、その時に話はします。
――早実に入学したというのは南海夫さんの影響が大きかったのでしょうか
昌彦 どうだったのかな。中学2年生ぐらいまですごいバカで、テストも学年で最下位レベルだったのですごく怒られたんですよ(笑)。「このままじゃやばいって、ラグビーすらできないよ」と言われた記憶があります。その時に本当にやばいんだと焦って(笑)。たまたま早稲田の試合を見ていたら今後自分どうなっていくのかなとふと感じて、このままじゃ早稲田入れないなと思った記憶があります。その時から多分自分の中に漠然と早稲田に行きたいという思いがあったのかな。このままじゃやばいと焦って自分で早稲田を目指したと思います。
南海夫氏 (笑)。
――小さい頃から早稲田ラグビーというのは身近にあったのでしょうか
昌彦 トップリーグとかはよく見ていましたが、大学ラグビーの試合を見始めたのは多分中学生くらいからでした。それまで早稲田のイメージはなくて中学生くらいになった時に早稲田強くてかっこいいなと思って、お父さんもいたし自然と目指していた気がします。たまにお父さんの現役時代のラグビーの試合を見ていた感じです。見させられていた記憶もあります(笑)。
南海夫氏 (笑)。
昌彦 見させられていたというよりは僕の視界に勝手に入ったんですかね(笑)。
――家庭内での面白いエピソードや衝撃的なエピソードはありますか
南海夫氏 そんなにないよな(笑)。
昌彦 衝撃的なエピソード・・・。
南海夫氏 衝撃的でもないですが、たまたま家族4人で出かけていて、崎陽軒のシュウマイを新幹線の中で食べようとしていたんですよ(笑)。それで買ったシュウマイを昌彦に持たせていたら切符を買うと同時にその販売機の横にシュウマイを置き忘れてしまって、いざ食べようと思ったらシュウマイがないっていう・・・。
一同 (笑)。
南海夫氏 それぐらいしか(笑)。そんなに衝撃的なエピソードはないよね。
昌彦 家族内ではないかな(笑)。
――南海夫さんは家庭で料理はされていたのですか
南海夫氏 たまにしましたよ。
――お父様の手作り料理で好きなものなどあれば教えてください
昌彦 いやでも大したことないですよ、本当に(笑)。なんかインスタントのパスタゆでるくらいですよ(笑)。
南海夫氏 そんなことないだろ(笑)。
昌彦 え、本当? それ以外作ってることあるの? 俺が気にしてなかっただけか(笑)。
南海夫氏 そうだよ。小さいときは僕がケーキとかを焼いてました。
昌彦 え! そうなの(笑)。
――南海男さんがケーキを焼いていたということですが、昌彦選手はお味等記憶ありますか
昌彦 全然ないです(笑)。
南海夫氏 その辺は多分お兄ちゃんの方が記憶にあると思います。基本的に(昌彦は)無頓着なんですよ(笑)。そういうことに興味がないんです(笑)。
一同 (笑)。
早大初の親子2代キャプテン
グラウンドで会話をする相良親子
――次に主にラグビーのことについてお聞きしていこうと思います。 昌彦選手は1、2年時にお父様が監督だった環境でプレッシャーはありましたか
昌彦 特にありませんでした。入部して最初3カ月くらいは親が監督というのが頭にあったのですが、でもやっぱり3カ月したら慣れましたね。普通に何もプレッシャーを感じず、ただ一部員としてプレーできていました。
――当時、選手として南海夫さんにアドバイスをいただくことはあったのですか
昌彦 何かアドバイスを求めていたということはあまりないですね(笑)。そんなに自分の悩みを打ち明けるタイプではないので。でも気づいた時に言ってくれたのかなという感じはあります。すごく印象に残っているということはあまりないですが、要所、要所で自分をいい方向に導いてくれたと思います。
――南海夫さんから見て昌彦選手はどんな選手でしたか
南海夫氏 しっかり体を当ることができますし、真面目にプレーできていたので、ある程度信頼のおけるプレーヤーでした。ただ、やっぱり彼自身1年生から試合に出ているので2年3年と段々慣れてくるところがあるじゃないですか。これは自分の経験から言えることなのですが、やっぱり早稲田の赤黒に袖を通してしまうと、どこか心の余裕が出てきてしまってどうしても伸び悩む時期があると思ったので、特に2年生になったときかな「これからひと伸びしないと大変だよ」という話はしました。そういう部分で3年生の時にはもうちょっとできたかなという気はしましたね。それは彼自身も感じた部分があると思います。
――チームの中で親子関係という状況にやりにくさはありましたか
南海夫氏 結構周りから親子でやりにくいんじゃないかと言われたり、見られたりというのはありましたが、昌彦がどう思っているかは別として僕はそんなに意識はしていませんでした。監督として、親としてアドバイスをこそこそするわけでもなく部内でしっかり話せていました。そこに関して特別感はなかったです。僕が監督を終えて2年間はOBとして部のリクルートディレクターという立場で残ってはいましたが、監督、コーチングスタッフから離れていたのでそれからは個人的に気づいたことをアドバイスしていました。(昌彦が)4年生でキャプテンになってからは自身がキャプテンとして経験したことも含めてアドバイスをしていました。ちゃんとできるのかな、大丈夫かなというのは感じてはいたものの、立場が人を変えるではないですが、自分のカラーを出してやれていたと思います。人前でしっかり話せるようになっていたし、すごく成長を感じました。
――昌彦選手はやりにくさを感じていましたか
昌彦 気まずさは特に感じませんでした。
――南海夫さんは昌彦選手が早稲田の主将になると聞いた時、正直どう思われましたか
南海夫氏 主将になるんだろうなというのは感じていたので、いよいよなってしまったかと思いました(笑)。僕ら親子で優勝とか、親子で監督、選手とか、親子で2代キャプテンは歴史の中で初めてだとか、何かとそういうのがついて回る1年になるなという感じでした。
――お話の中にもありましたが、早稲田で初めて親子でキャプテンを務めたということについて何か意識していたことはありましたか
南海夫氏 それは僕らがコントロールできるものでもなく、巡り合わせなので。ただ、やっぱり勝負の世界では勝つ、負けるしかないので、親心としては当然『荒ぶる』を取って、少しでもいい姿というか成績を残してやり切って卒業してほしいなとは常々思っていました。僕が結果をコントロールできないですが、そういった意味だと昌彦の代が余計に気になっていました。これが正直な思いですね。
――昌彦選手に主将として期待していたことはございましたか
南海夫氏 期待していたというよりは、三つのことを言いました。一つ目は、昌彦自身も「俺は背中で引っ張るリーダーになる」と言っていたと思うのですが、全体をまとめようとすることにばかりに注力するのではなく「自分がプレーヤーとして成長するということがすごく大事だよ」という話はしました。プレーヤーとして成長するということが目標やチーム力を上げることにつながるので、チームのことばかり気にしてプレーを満足にできなかったらすごく後悔が残ると思って。「一プレーヤーとしてしっかり成長しなさい」と言っていました。二つ目は「とにかく自分の思った通り悔いなくやり切れ」と常々言っていたと思います。「もうお前のチームなんだから、お前が思うようにしっかりやり切れ」と。もう一つはキャプテンになりたてのときに言っていたのですが、彼も僕の目から見ると、ぶっきらぼうというか、人を思いやらずに直接的な言い方をしてしまうという癖があると思います。喋り方とか伝え方は人それぞれ感じ方があるので「人に合わせて言わなきゃいけない時もあるし、分からない人には分からないまま放っとくのではなくて、しっかり分かるような言葉で接するような努力が必要だと思う」というような話はしました。
――昌彦選手は秋シーズンケガで試合に出場できない期間がありましたが、南海夫さんから声をかけられたことはあったのですか
南海夫氏 とにかくできる治療をしっかりやるということです。対抗戦(関東大学対抗戦)で途中1回ケガをして、あの時は帝京大戦というターゲットで復帰できそうな感じでした。ですが、早慶戦でケガをした後は大学選手権で、負けたら終わりのノックアウトシリーズしか復帰できるチャンスがなかったので、とにかくそこは周りを信じて、自分が復帰するまでできることはしっかりやりなさいと話はしていました。
――年越しのかかった大学選手権の明大戦は、最後に昌彦選手のジャッカルでボールを奪い勝利した試合でした。南海夫さんにはどのように映っていましたか
南海夫氏 そのプレーそのものもいいプレーだったと思いますし、復帰して一昨年負けた明大に彼のジャッカルで勝利が決まるという少し物語的にもいいところがあったと思います。昌彦とは、1つ上の先輩の長田(智希、令4スポ卒=現埼玉パナソニックワイルドナイツ)たちの借りは返せというか、それを超えろよとよく話をしていました。客観的に長田たちの代の方がチーム力は高かったと思うので、だからこそ「お前らがそこを超えることに意味があると思うし、絶対彼らのためにも超えろよ」と言いました。なので、そのプレーで勝利が決まって嬉しかったですね。
――決勝の帝京大戦前は、何か声をかけられたのですか
南海夫氏 もう帝京大が強いのは分かっていたので「とにかく頭の中をしっかり整理して、今まで積み上げたことをしっかり出しきれ」という話をしました。あとは「最後までクロスゲームになっていたら勝つチャンスがあるかもしれないから、とにかく我慢して、後半20分くらいまで競っていたら勝つチャンスがあるし、そうならなかったら大差になる」と伝えました。
――チームの結束力についてはどのように感じていらっしゃいましたか
南海夫氏 対抗戦が終わるくらいまでは結構バラバラだったんじゃないですか(笑)。僕が監督2年目の時に彼らは1年生で入ってきて、ちょっと語弊はありますが、この子たちの代には能力の抜き出た選手がそんなにいるわけではないし、全体的におとなしい選手が多かったです。長田たちの代は結構個性的なキャラ、明るい選手が多かったので、それと比べると少し雰囲気、カラーが逆でこの子たちが4年生になった時にどうなるのかなと少し心配はしていました。対抗戦が終わるくらいまで、すごく真面目にはやるけど、なんとなく寡黙に黙々とやるというか、俺らのチームだみたいなエネルギーが出ている感じがしなかったので、少し大丈夫かなとは思いました。ですが、いよいよあと何日できるか分からないという状態になった時に、4年生の何人かには「明日終わるかもしれないけど、これでいいのか」という話はさせてもらって。それがきっかけだったかは分からないのですが、1週間後に練習を見に行ったら雰囲気がすごく変わっていて。ようやく大学選手権に入ってエネルギーが出てきたので、期待が持てました。
――結束力という面でいうと、12月18日に行われた早明オープン戦は南海夫さんからみても、やはりターニングポイントなのでしょうか
南海夫氏 あれはやっぱりいい試合でしたね。監督は2年しかしませんでしたが、この子達を4年間ずっと見てきたので。初めてこんなプレーができるんだとか、こんなに気合い入れてできるんだという気持ちのこもったプレーを見させてもらいました。あの試合はターニングポイントになったと思いますね。
――改めてこの1年、昌彦選手が主将をしている姿はどのように見ていらっしゃいましたか
南海夫氏 立場が人を成長させるではないですが、チームの変化も見てきて、彼自身の成長というか、しっかりリーダーとしての役割を果たせていると感じていました。言い過ぎかもしれませんが、最後は頼もしいくらいになってきたので、リーダーとして人としてすごく成長した1年だったように見えました。最後は勝てなかったですが、最後のファイナルステージで戦うことができたので、残念だけどお疲れさまという感じですね。
――4年間を終えて、お父様に感謝していることを教えてください
昌彦 特に4年目はキャプテンとして、悩みやきついこと、分からないこととかも結構多くて。そこで本当にいろんなアドバイスをもらいました。普段から練習とかを見ているわけではなかったので、新しい客観的な意見というのをもらえたりして。外からこう見えているというのを、教えてくれたことで自分の考えなどが変わったり、新しい発見もあったりしました。チームをリードしていく上で、力になったと思います。
「もうだめだと思うまでチャレンジしてほしい」(南海夫氏)
2月に行われた追い出し試合での一枚
――チーム相良が一段落して、南海夫さんから昌彦選手にかけた言葉はありますか
南海夫氏 お疲れ様くらい言ったと思います(笑)。あまり家にも帰って来ないし(笑)。かなり久しぶりに会ったのでそれくらいですかね。
――昌彦選手が1年間主将としてチームを引っ張ってきて学んだこと、得たことはありますか
昌彦 人に対して直接きつく言ってしまったことがあったと思います。言い方を考えろとは(周りからも)言われたのですが、そこがあまり考えられていなかったと最後の方に気づいて、少し言い方を変えたことがありました。コミュニケーションの取り方は成長したかなと思います。あとはこの1年間、チームのことやラグビーのことを考えることが増えて、ラグビーを理解すること、どういうプレーがチームにとって大事なのか、ラグビーについて学べた1年だったと思います。
――南海夫さんは自身の主将としての1年を終えて、どのような感情が残ったか覚えていらっしゃいますか
南海夫氏 その当時の自分たちは決勝で勝つイメージを持って取り組んでいましたが、準決勝で負けてしまっていて。やはり数年かけて振り返ると、もっとできたことがあったといろいろと気づくことがあります。僕は1人で背負いすぎてしまったので、もう少し周りを上手く使えたら良かったかなと思いました。今でいうコミュニケーションという部分が中途半端だったかなと思います。あとは一プレーヤーとして成長することが足りなかったですし、後から考えるともっと成長できたのではないか、成長しておけばもっと違うチームの形になったかもしれない、自分自身ももっとレベルの高いところでその先プレーできたかもしれないなと思います。
――そういった主将としての経験を昌彦選手に伝えていらっしゃったのですね
南海夫氏 そうですね。自分の思った通りにやり切れとか、いち選手として成長しなさいとか。やはり同じ後悔はしてほしくなかったので。それは僕の勝手な主観だったかもしれないですが、昌彦に限らずリーダー陣の子たちには言っていました。
――次のチームを東京サントリーサンゴリアス(東京SG)に決めた際、南海夫さんにご相談はされましたか
昌彦 しましたね。ぼんやりした理由でチームを選ぼうとしていたので、そういうところをはっきり固めてから選べと言われました。高いレベルでやった方が良いのではないかとも言われました。
――では今後どのような選手になりたいですか
昌彦 ライバルにすごい選手がたくさんいるのでその選手たちと競えるような選手になりたいです。今出ている選手だと山本凱さん(東京SG)とか本当にすごくて。1回タックルをするだけで会場が湧く、みたいなそんな選手なんです。なので、まずはタックルを磨こうかなと。あとは自分が得意な部分は運動量の部分だと思うので、本当にそこを極めていきたいなと思います。あとプラスして、何か一つ自分の強みを持ちたくて。まだ見つかっていないのですが、それ見つけて磨いて、あの(ライバルの)選手たちと戦えるように頑張っていきたいなと思います。
――南海夫さんから見て昌彦選手の現時点の課題や、伸びしろだと思う点について教えてください
南海夫氏 ライバルというか、サントリーには外国人を含めて本当にすごい選手がたくさんいて、そもそもリーグワンはレベルの高い世界なのでまずはしっかりフィジカルを作ってほしいです。あとはもうその選手を追い越したいという気持ちでどれだけ日々取り組めるかだと思います。せっかく自分でレベルの高い世界に飛び込んだので、それこそさっきからやり切れやり切れと言っていますが、自分が決めたことに対してはもうダメだと思うまでしっかりチャレンジして、諦めずに目標を追い越してラグビー人生を終えてほしいと思います。自分次第ですが、まだまだ伸びると思います。期待しています!
昌彦 (笑)。
――今後早稲田ラグビーに関わりたいという思いはありますか
昌彦 現役の時は自分が活躍することを第一に考えてやっていきたいと思っています。自分からどうこうしようとする気は今のところはあまり無いですが、後輩たちが何かあればいつでも話は聞けるよっていう感じではいます。
――お二人にとって早稲田ラグビーとは
南海夫氏 早稲田ラグビーを通していろいろな仲間やOBと出会って過ごした時間が人間としての原点になっています。今会社員になって30年以上経ちますが、物事に向き合うときなどに自分のベースを作ってくれたところだと実感することがあります。感謝していますし、この早稲田ラグビーに出会えて良かったです。この先も大事にしていきたいし、これからは後輩たちにそういう場だと伝えるのも役割だと思うので、一生大事にしたいと思います。
昌彦 自分を成長させてくれた場所です。早実の時から早稲田を背負ってきましたが、自分が高校3年生で花園に出た時、早稲田という名前が付いていなかったら注目されていなかったと思います。大学では1年生から試合に出られたことでいろいろなことを学びましたし、結局最後はキャプテンにまでなって本当に濃い1年を過ごすことができました。それも伝統とかOBの方々の支えがあって成り立っていることだと思うので、本当に素晴らしい場所だと思います。
――最後に、ファンの方々にメッセージをお願いします
南海夫氏 去年は悔しい結果に終わってしまったので、また新しいシーズンでは『荒ぶる』を取れるように頑張ると思います。引き続き応援お願いします。
昌彦 大祐(伊藤、スポ3=神奈川・桐蔭学園)がチームを引っ張って去年できなかった優勝を実現してくれると思います。すごく面白いチームになると思うので、また引き続き応援お願いします!
――ありがとうございました!
(取材・編集 川上璃々、戸祭華子、濵嶋彩加)
◆相良昌彦(さがら・まさひこ)
2001(平13)年2月1日生まれ。180センチ。98キロ。東京・早実高出身。社会科学部4年。名前の由来を聞いたところ、『彦』は早大卒の祖父の名前から取られた文字で、『昌』は盛んや栄えるといった意味を持つ『隆昌』(りゅうしょう)の言葉から取られた名前だそう。兄の名前には『隆』の文字が入っており、兄弟一緒に飛躍してほしいという父、南海夫氏の思いが込められています!
◆相良南海夫(さがら・なみお)
1969年(昭和44)8月14日生まれ。1992年(平4)政治経済学部卒。卒業後は三菱重工相模原ダイナボアーズに加入し、現役引退後は8年間監督としてチームに関わった。2018年には早大の監督に就任し、2年後早大11年ぶりとなる『日本一』へチームを導いた。取材に丁寧に答えてくださった南海夫氏。我が子の話す様子を真剣な眼差しで聞いており、時には発言にほほ笑む場面も。普段の父としての様子が垣間見えた瞬間でした!