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競走部

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2021.03.24

【連載】『令和2年度卒業記念特集』第65回 吉田匠/競走

競技人生初めての挫折 支えた上昇志向

 「すごく苦労した。こけてしまった4年間だった」。吉田匠(スポ=京都・洛南)にとって、早大での4年間は人生で初めて挫折を感じた時間だった。大学に入ってから、3000メートル障害ではアジアジュニア選手権2位、U20世界選手権5位入賞を果たすなど着実に実績を残していた。一方で3大駅伝は4年間で計3回の出場にとどまるなど、高校時代までに比べるとどこか物足りなさもあった。特に駅伝主将を務めた4年時は満足のいく状態でレースに出場することは少なく、悔しさをより募らせた。大学卒業と同時に一線から退く吉田。大学時代の活躍を交えつつ、これまでの競技人生を振り返っていく。

 陸上を始めたのは中学時代。小学生の時から続けるサッカーに加え、陸上部で長距離に取り組みはじめた。サッカー部の練習を終えると、陸上部と同じ練習をこなす日々。練習時間こそ限られていたが、3年時には元々の素質が花開き、早くも個人で全日本中学選手権に出場。しかし駅伝では全国大会に出場できず、悔しい思いも味わった。洛南高からスポーツ推薦の話をいただいた吉田だったが、高校進学を決めた裏には葛藤が少しばかりあった。「実力こそなかったが好きなサッカーか。それとも結果を残した陸上を選ぶか。あるいはサッカーも陸上もやらないのか」。その中で最後に選択したのは中学時代に成績を残した陸上競技。負けず嫌いな性格である吉田は「(上の舞台で)戦っていきたい」と思い、陸上に専念することを決めた。

3年時の箱根で5区を走る吉田

 洛南高では全国高校駅伝、全国高校総体(インターハイ)にそれぞれ2度出場。「駅伝、インターハイと悔しい思いはしたが、最終的にはいい結果を残せた」と語るように、学年を経るごとに徐々に実力をつけていく。全国トップクラスの強豪校でライバルと切磋琢磨(せっさたくま)したことが成長を促したのだ。また3000メートル障害と出会ったことで世界を目指すようにもなった。早大への進学を決めたのも、相楽豊駅伝監督(平15人卒=福島・安積)、駒野亮太長距離コーチ(平20教卒=東京・早実)という現役時代3000メートル障害を中心に活躍した方から指導を受ける環境が整っていたことが要因だった。

 「中高の7年間は順調に伸びていたこともあり、エントリーメンバーに1年から入ることは当たり前という気持ちがあった」。当初、吉田には思い描いていた姿があった。それは主力として全大会を走り、区間賞、区間上位争いをするというもの。しかし、1年時の全日本大学駅伝対校選手権(全日本)7区で区間15位と凡走。続く2年時は中谷雄飛(スポ3=長野・佐久長聖)を中心とした勢いのあるルーキーたちの影に隠れ、出雲全日本大学選抜駅伝(出雲)、全日本と出番なし。さらに東京箱根間往復大学駅伝(箱根)直前に事故で肋骨(ろっこつ)を骨折。トラックでは結果を残す一方で、駅伝では結果を残せずにいた。

3000メートル障害で日本選手権に出場した吉田

 3年になると主力としての活躍が期待されたが、思い描いた通りのレースはなかなか実現できず。それでも3000メートル障害では日本選手権に出場するなど、吉田自身は「少なからずチームの力になることができた」と実感していた。しかし駅伝でチームを引っ張っていけないことに対し、葛藤する様子も見受けられた。主将に就任してからは、さらに悩んでいく。『谷間世代』とも周囲から言われた中で結果を一番残してきた自負があったからこそ、ラストイヤーに結果を残すことができなかったことはつらかった。周囲からいくら労いの言葉をもらってもどこか卑屈になってしまった。また高校時代までは学年を上げるたびに結果を残すことができていたが、大学では成績が上昇することもなく、吉田にとって、大学での4年間は人生で初めて挫折を感じた時間であった。

 「主将としては全然駄目だった」と振り返る吉田。だが、それでも大学という自主性の求められる環境で主将を務めた経験は、社会に出た際にきっと役立つはずだ。挫折を味わったからこそ、根性と忍耐は誰にも負けないものがあるに違いない。卒業後銀行員として働くことに対し、「(これまでのような)足が速いことで評価される世界ではない」と一抹の不安も感じるというが、これまでの競技生活で培った精神力や困難に立ち向かう姿勢は、きっと武器になるはずだ。

 

(記事 大島悠希氏、写真 小山亜美、岡部稜氏)

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