メニュー

その他

« 特集に戻る

2020.02.13

【連載】『令和元年度卒業記念特集』第14回 青木孝史朗/アイスホッケー

憧れた場所で

 3つ上の兄と同時にアイスホッケーを始めたのは6歳の時。その日から17年間、青木孝史朗(スポ=埼玉栄)の隣には常にアイスホッケーがあった。幼い頃にエンジのユニホームに憧れた少年は、いつしか長身を生かしたゴール前でのバトルが魅力のポイントゲッターへと成長し、伝統ある早大ホッケー部の主将としてチームを背負うまでになった。そんな青木もついに今春、早大を卒業し新たなステージへ進むこととなる。「自分が小さいころに想像していた何倍も充実した学生生活、ホッケー生活だった」と語る大学での4年間は青木にとってどのようなものだったのか。

 小学校時代に関東大学リーグの試合を観戦した際に、当時早大に所属していた同じ長野県出身の上野拓紀(平21卒=現ひがし北海道クレインズ)のプレーに憧れを抱いた。さらに「こんなかっこいいチームがあるんだ」と早大のホッケーのプレー、雰囲気に魅了され将来は絶対に早大でプレーすると心に決める。青木は憧れだと語った上野と同じ犀陵中に進学。そこで全国大会に出場した時に全国とのレベルを痛感し、そこからホッケーへの熱が一気に高まった。関東で全国を狙えるチームはここしかないと思い、高校は兄も通った埼玉栄に進学。北海道の強豪校に進むという選択肢もあったが、「常に優勝を狙えるようなチームに行くより、それより少し実力が下のチームに行って上を倒す方が、自分の反骨心が出て楽しい」という思いで高校を選んだ。

 「高校3年間を思い出せば、どんなにつらいことも乗り越えられる」というほどハードな練習を乗り越え、いよいよ早大でのアイスホッケーが始まった。大学1年時から首脳陣の期待を背負い、上位セットで起用される。徐々にチームのプレースタイルにも慣れ、ポイントに絡むことが増えた矢先のことだった。2年秋の関東大学リーグ戦(リーグ戦)後半で右膝の靭帯を痛め戦線離脱。アイスホッケー人生で初めて負った大怪我だった。手術を終え、そこから長い長いリハビリ期間が始まる。他の部員がオフの間もリハビリに取り組み「ホッケー人生の中でも最もつらかった一年間」と当時を振り返る。それでも「みんなお前が戻ってくることを楽しみにしてるからな」というコーチや様々な人からの言葉に支えられ、実戦に復帰したのは8月の大学交流苫小牧大会。そこから青木の、そして早大の快進撃が始まる。リーグ戦ではチームハイタイの通算10ゴール。早大の得点源としてリーグ戦5年ぶりの2位に貢献した。復帰後のこのリーグ戦が4年間で最も多くポイントをたたき出し、非常に充実したものとなった。

インカレ初戦でパックを運ぶ青木

 実力のあった一つ上の代が引退を迎え、次の主将には青木が指名される。「早稲田のキャプテンをまさか自分がやると思っていなかった」と憧れた場所で主将を務めることへのうれしさ、そして結果を残さなければという責任感や不安。様々な感情が混ざった中で、学生最後のシーズンが始まった。だが、春の関東大学選手権で今度は左膝の靭帯を負傷。今回は手術の必要はなかったが春の早慶定期戦(早慶戦)には出場できず、再び夏に実戦復帰することとなった。秋リーグを3位で終えた早大がタイトルを獲得する最後のチャンスは12月の日本学生氷上競技選手権。1回戦、2回戦を危なげなく突破し迎えた準々決勝・東洋大戦。第1ピリオドで青木はここでも膝を負傷し、病院に運ばれる。最後までリンクに立てないまま、チームは敗戦。ずっと動画で見守っていたというその試合は、「東洋大が一枚上手だった」と振り返る。「でも、今年一番の試合をしてくれたと思います。今シーズンは自分がこんな情けないキャプテンではあったけど、チーム全員が頑張ってくれた」とチームメートへの感謝を最後に口にした。

 入学時はアイスホッケーのプロリーグであるアジアリーグでプレーすることが目標だった青木。だが、昨年の7月にアジアリーグには進まないという選択をした。「自分の中で常に膝の怪我への不安というのは取れなかった」というのが大きな理由だという。大学リーグでプレーしていても「ボディーチェッキングをもらうのが少し怖い」という思いが常に頭の中にあった。アジアリーグは大学リーグよりももっと体格の大きい選手が多く、ボディーコンタクトもより激しい。そのような環境でアイスホッケーを続けていく自信がないゆえの決断だった。卒業後は地元のチームでプレーするが、本気でやるアイスホッケーにはここで終止符を打つ。だが、17年間の競技生活を通して得たたくさんの仲間たち、そして「人生の一部であり死ぬまで離れることのないスポーツ」だというアイスホッケーがいつも共にある青木の未来は、きっと明るい。

(記事 小林理沙子、写真 細井万里男)

« 特集に戻る