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2018.02.06

【連載】『平成29年度卒業記念特集』第3回 柳澤一輝/野球

己を信じて突き進め!

 「自分のピッチングをすれば勝てる」――威力のある直球と、マウンド度胸が持ち味の柳澤一輝(スポ=広島・広陵)はこの4年間、度々この言葉を口にした。柳澤の大学野球生活は、決して順風満帆なものではなく、2年生のときにはけがに見舞われ全く活躍することができなかった。しかし柳澤はこの挫折を「大きな転機だった」と言う。けがを機に自身のスタイルを見直し始め、その後の3年秋や4年時は好調に。プロに行くかともうわさされたが、悩んだ末に柳澤が選んだ道は社会人野球で経験を積むことだった。

 柳澤は、1年の春から大竹耕太郎(スポ=熊本・濟々黌)、北濱竣介(人=石川・金沢桜丘)らと共に一軍の遠征に帯同するなど、期待を受けていた。その期待に応えるように、その年の東京六大学秋季リーグ戦(秋季リーグ戦)で初登板を飾り、救援陣の軸として活躍。当時エースであった有原航平(平27スポ卒=現北海道日本ハムファイターズ)をけがで欠く中、持ち前の直球とマウンド度胸を生かし、早くもチームに貢献する投手となった。このマウンド度胸は、柳澤の中の「練習でやってきたこと以上の力は出ない」という認識から生まれている。実力以上の結果を残そうとしないことで、変に力まず落ち着いて投げることができるのだ。しかし、時には悪い流れを断ち切れず、すぐに降板となることも。そのときのことを振り返って柳澤は「大学野球というのは高校野球よりもはるかに上なんだなと感じたシーズンだった」と語る。

 大学野球の洗礼を受けながらも、新人戦で直球が150キロを計測するなど日々成長していたように見えたが、2年目の夏を迎える前に肩を故障してしまう。同期の大竹や一学年下の小島和哉(スポ3=埼玉・浦和学院)が活躍する中、もどかしい思いを抱えたことだろう。しかし柳澤は決してそこでめげずに自分自身と向き合い始めた。「自分が自分のことを知らなさ過ぎた」。それからは練習後にトレーナーに診てもらう、治療院で体をほぐすなど、翌日に疲れを残さないよう入念にケアをするようになり、3年秋には救援として8試合を投げて自責点2と復活を遂げた。4年生になると先発を任させる機会も増え、ワセダの主力投手としてきっちりと仕事をこなしたのだが、それも2年時の挫折があったからこそ1年間投げ切れたのだと考えている。

ベストピッチングに挙げた4年春の東大2回戦での柳澤

 今年度ワセダは良い結果を出せず、秋には70年ぶりとなるリーグ戦最下位に。しかし、柳澤自身は一年を通して調子の良い試合も多かったように思う。4年間のベストピッチングを尋ねても、無四球完封を果たした4年春の東大2回戦を挙げていた。また、「練習一つ一つ盛り上げていければ」、「なるべく孤立させないように全体に喋りかけるように心がけていた」と、普段の練習の面でも最上級生としての振る舞いを意識した。投手リーダーである大竹を助ける立場として、大竹の目の届かないところにも気を配り、周りを支える選手に成長したのだ。

 「プロに行ったときにもっと通用するんじゃないかなと思った」。柳澤は卒業後、プロには進まずホンダ鈴鹿へ就職し、社会人野球のステージへ進む。周りの仲間たちからはプロ入りを勧める声もあったが、プロに行って下から這い上がるのではなく、社会人でプロにも通用するようしっかり鍛えるというのが、4年間の自身の成績も踏まえて柳澤が下した決断だ。「学生生活が終わって寂しいという気持ちはあるが、社会人の一員として野球をするのが楽しみだという気持ちもある」と、心はもう先へ向いている。社会人野球での抱負は『日本一』だそうだ。この春ワセダに別れを告げる彼は、さらなる大きな舞台に全く気後れすることなく、らんらんと目を輝かせていた。今後も自慢の威力のある直球とともにどんどん前進し、そしていつか憧れのプロ野球の世界へ。柳澤の野球人生は、まだまだ長い。

(記事 今山和々子、写真 皆川真仁)

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