メニュー

その他

« 特集に戻る

2017.03.23

【連載】『平成28年度卒業記念特集』第69回 桑野詠真/ラグビー

泥臭く、ひたむきに

 「苦しいこともあったが、大きく環境が変わる中でキャプテンという大役をやらせてもらって本当にいい経験ができた」。桑野詠真(スポ=福岡・筑紫)は早大での4年間をこのように振り返った。1年時は新人総代として、2、3年時は委員として学年をけん引。そして、4年時は主将としてチームの先頭に立った。そんな学年、チームを引っ張り続けた桑野の4年間を振り返る。

 中学校では白球を追っていた桑野。そんな桑野の楕円球との出会いは突然訪れる。入学した筑紫高校の当時のラグビー部の監督が母親と同級生だったという縁もあり、ラグビー部へ入部した。しかし、筑紫高校は福岡県内でも屈指の強豪校。経験者が多く、初心者の桑野にとっては厳しい環境だっただろう。だが、その中で着実に成長し続け、花園出場こそ叶わなかったものの、3年時には高校ラグビー界のスター選手が一堂に会する高校日本代表入りを果たす。そして、高校のOBである堺裕介氏(平21スポ卒)の影響により、早大への進学を決めた。

接点で愚直に体を張り続け、チームを支えた

 早大入学後、最初の公式戦でスタメンに名を連ねたものの、徐々に出場機会は減少。それでも、「自分の実力不足でAで出られなかった。Bに置いてもらえるだけでもありがたかった」と謙虚に受け止め、ひたむきに練習を積み重ねた。その結果、2年生になるとレギュラーの一角へ成長。U19日本代表、ジュニア・ジャパンにも選出され、選手として飛躍を遂げた。しかし、その一方でチームは全国大学選手権2年連続セカンドステージ敗退と低迷。この時期を振り返って、「(自分が)もっとやれていればチームも勝てたかもしれない試合もあった」と悔しさをにじませる。この時やり切れなかった悔しさを胸に、ラストイヤーを戦うこととなった。

 迎えた最終学年。後藤禎和前監督(平2社卒=現ワセダクラブ)が退任し、山下大悟監督(平15人卒=神奈川・桐蔭学園)が就任。スクラム・チームディフェンス・ブレイクダウンをチームの3本の柱として掲げた。その3本の柱全てにおいて、桑野は中心的存在となる。スクラムではロックとして推進力になり、屋台骨として早大を支えた。また、ブレイクダウン、ディフェンスには常に顔を出して体を張り続け、勝利のためにひたむきに汗を流した。さらに、桑野はトップチームの全ての試合に先発出場し、全試合フル出場。1試合での身体へのダメージが大きく、ケガも起こりやすいラグビーにおいて、1年間フル出場するのはとても難しい。それにもかかわらず、桑野は1年間グラウンドで戦い続け、チームを鼓舞した。チームは春先こそ結果が出なかったが、夏を越えて結果が出ることを信じて日々練習を続け、関東大学対抗戦では6勝1敗の2位。日本一を掴むことはできなかったが、桑野はチームの大黒柱として戦い抜いた。

 「今季の全ての経験が自分を成長させてくれた」。主将として得たものを問われたとき、桑野はこのように答えた。卒業後はトップリーグの強豪、ヤマハ発動機への入団が決まっている。厳しいポジション争いが待ち受けているが、「ヤマハといういい環境でラグビーをさせてもらえることに甘んじることなく、一からしっかりとトレーニングを重ねて、日本一に向けて少しでも力になれるように頑張っていきたい」と力強く語った。かつて山下監督を教え、早大を日本一へと導いた清宮克幸元監督(平2教卒=現ヤマハ発動機監督)の下、大学時代に掴めなかった日本一の座を掴むため、桑野はこれからもチームのために体を張り続ける。

(記事 新開滉倫、写真 浅野純輝)

« 特集に戻る