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2017.02.21

【連載】『平成28年度卒業記念特集』第24回 浅野佑樹/体操

悔しさの果てに

 「悔しい一年間になりました」。浅野佑樹(スポ=東京・明星)は主将としての一年間を振り返ってこう絞り出した。自他共に認める真面目な性格と、目標に向かって突っ走るその背中で、チームを率いてきた浅野。その悔しさはどこから来たのだろうか。体操に真摯(しんし)に向き合ってきた男の、これまでの道のりとは。

 浅野が体操と出会ったのは小学3年生の時。親の勧めで体操教室の門を叩いた。最初は楽しく通っていたが、だんだん練習がつまらなく感じやめたいと思うようになった。そんな中、浅野に転機が訪れる。小学5年生の時に初めて出場した東日本ジュニア選手権で、同じ教室の同学年の仲間のうち、ただ一人予選落ちを喫したのだ。次の日から、悔しさを胸に練習に明け暮れる日々を送った。その結果、一年後に同じ大会で優勝を果たし、その決勝大会である全日本ジュニア選手権でも優勝。体操にのめり込んでいくきっかけとなった。

得意種目の鉄棒でチームに貢献する

 大学選びの基準となったのは、団体戦に出られるかどうかだった。体操の団体戦は1チーム6人で、それぞれが六種目を演技しその合計点で争われる。あん馬が極端に苦手な浅野は、六種目を合計した点数では団体メンバーに入れないかもしれないという不安を抱えていた。しかし同時に、あん馬を除いたらきっと団体で活躍できるという自負もあった。早稲田なら点数だけではなくて、一人一人の体操における個性を認めてくれるのではないか――。そんな期待をもって早稲田への入学を決めた。早稲田での四年間は順調に始まった。1年生ながら全日本学生選手権(インカレ)の団体メンバーに選ばれると、跳馬やゆかなどでチームに貢献。また、自分の体操を高めるという点においては、小倉佳祐(平28スポ卒=現相好体操クラブ)が大きな存在を占めていた。得意種目が突出しており苦手種目をいかに克服していくか、という浅野の体操におけるスタイルと似ていたのだ。「小倉さんに追いつけば自分なりにいい形になれるのではないか」という思いのもと、小倉と同じように練習を積んでいった。2年生からUー21代表に選ばれたことが、この努力のやり方は間違っていなかったと証明している。そして最終学年を迎える頃、主将に立候補し任命されることとなった。

 体操部を率いてゆくにあたり、浅野はコミュニケーションのとれるにチームにしたいと方針を決めた。体操は個人競技ゆえ、チームとしてまとまりにくいところがある。しかし団体戦を念頭に置くならば、共通の意識を持ったチームにする必要があった。浅野自身が積極的に部員に声をかけたり、他の4年生も下級生とコミュニケーションをとろうとしてくれたり、「チームのために頑張ってくれる部員がたくさんいた」と振り返る。そのような最上級生の働きかけのおかげか、だんだんと団体戦で3位に入るという共通の目標を持ったチームになっていった。そうして臨んだ最後のインカレ。結果は7位に終わった。予期せぬけが人と、重なるミス。失敗しないことを何よりも重視していた浅野にも、最終種目のあん馬で落下が出た。けが人が出た原因を「どこかチームをまとめきれていなかった主将としての弱さや力不足」と浅野は悔しげに語る。最後のインカレは、練習の成果を発揮できた少しの満足感と、悔しさを残して幕を閉じた。

 インカレで3位になりたい、そのためにはチームの練習をもっとよくしなくてはいけない、先生たちともコミュニケーションをうまく取らなくてはいけない。たくさんあったやりたいことが、どれも中途半端に終わってしまった。自分のやるべきことを絞って集中できていたら、もしかしたら違う結果があったのかもしれないと、そう思うこともある。それでも、早稲田でやり残したことはないと晴れ晴れした表情で言い切った。卒業後は早稲田の大学院に進み、鉄棒、ゆか、跳馬に絞ったスペシャリストとして競技を続ける浅野。今後の目標は、という問いに対して、「鉄棒で日本一になります」と即答した。小学6年生で一番になったあの時の気持ちを、今も忘れられずに追い続けている。『日本で一番』を目指し、これからも浅野の体操人生は続いていく。

(記事 村田華乃、写真 中村ちひろ氏)

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