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2014.11.17
早稲田スポーツ新聞会創刊55周年記念講演会 第2部パネルディスカッション 11月5日 早大早稲田キャンパス大隈記念講堂
【記念講演】2020年東京オリパラを考える(1)
この世に早稲田スポーツが産声を上げたのが1934年(昭59)11月17日。学生運動が盛んな時期だったとはいえ、早大にはなぜスポーツに特化した新聞がないのだろうという一人の青年の疑問によって立ち上がった。そして幾度もの財政危機を乗り越え、本年創刊55周年を迎えた。 その節目を記念した講演会のテーマはズバリ2020年東京オリパラ(オリパラ)。実は当会の創刊に、1964年(昭39)の東京オリパラの影響を強く受けている。そして2020年東京オリパラは多種多様な趣味趣向がなされる現代において、スポーツが再度注目されるきっかけになるだろう。しかし6年後に迫ったオリパラは単なるスポーツの祭典ではない。2020年に私たちができることと、日本人に求められることは何か。東京オリパラ組織委員会理事でバレーボール部OGのヨーコ・ゼッターランド氏(平3人卒=東京・中村)、同組織委参与の間野義之教授(スポーツ科学学術院)、早大スポーツ振興・競技スポーツ担当理事(当時)の宮内孝知教授(昭43教卒=埼玉・浦和、スポーツ科学学術院)をお招きしたパネルディスカッションでは有識者らしい意見が飛び交った。
※本講演会は11月5日に行われたものです。
単なるスポーツの祭典ではない
バルセロナオリンピック銅メダリストのゼッターランド氏
――それでは初めにゼッターランドさんにバルセロナオリンピック、アトランタオリンピックのお話を伺いたいたいと思います。まず初めてのオリンピックとなったバルセロナオリンピックはいかがでしたか。
ゼッターランド氏 まずは皆さまこんばんは。本日はこのような形で母校のパネルディスカッションにお招きいただきましたが、この大隈記念講堂では記念イベントなど緊張した経験の方が多いです。きょうは入学した時にお世話になった宮内先生と、お仕事でご一緒させていただいている間野先生と共に座らせていただいておりますので、安心してお話させていただきたいと思います。前置きが長くなりましたが、バルセロナオリンピックは私にとって初めてのオリンピックでした。元々日本国籍がなかった頃から日本代表を目指して、バレーボールを中学校1年生からやってきました。オリンピックに行けたということが私にとってとてもうれしかったです。大学を卒業するまでは、オリンピックに行くチャンスがあるのかという状況だった中で、卒業から1年3カ月後に米国代表の公開トライアウトに縁あって合格しました。それまではオリンピックを目指してはいるのだけれども、自分の置かれている場所から対極の所にオリンピックがありました。しかし米国代表ではありましたが、その日からいきなり、とにかくオリンピックに出場して金メダルを取ることだけに専念して、技術的にも人間的にも磨くことを課題に与えられました。生活も激変しましたし、大学時代のアマチュアからプロに転向して、英語もあまり通じず苦しい環境でした。それでもオリンピックに出てメダルも頂きました。最初のオリンピックは夢の中でプレーをしているような、現実なのですが、現実味がなく、当事者なのにとても不思議な感覚を持った大会でした。
――宮内先生、ゼッターランドさんが入学したころの印象はいかがでしたか
宮内教授 もちろん覚えています。彼女が入学してきた時には、二十歳になったら国籍を決めるという話をしていました。日本で活躍してほしいという気持ちではいましたが、米国代表になって活躍したのは素晴らしいことですし、自分のことのようにうれしいです。
――バルセロナオリンピックの雰囲気はいかがでしたか
ゼッターランド氏 オリンピック前に開催地の下見に行って交流試合をするのですが、私たちは開催年の4月にバルセロナに行きました。その時に街中でどれくらいオリンピックが盛り上がっているのかという話をしましたが、競技場はまだ完成していませんでしたし、交流試合をした体育館には観客席もありませんでした。オリンピックに間に合うのかとも思いましたが、バルセロナという街自体が静かなところで、そのうちオリンピックが来るだろうくらいの雰囲気でした。それでもオリンピックが開催されると、スペインやカタールニャ地方独特の文化を強く感じましたし、スポーツ最高峰の大会ということで温かく迎えられた記憶があります。
――アスリートの方はもちろん競技のために各国を訪れていると思いますが、観光などはするのですか
ゼッターランド氏 観光はさせてもらえますが監督次第です。皆さんも2020年にはどういう日程で競技が行われるか目の当たりにすると思います。競技によっては1日で終わるものもありますが、バレーボールはメダルラウンドまでに約2週間かかります。1日おきの試合が多く、ほぼオリンピック開催期間中ずっと試合があります。そうすると他の競技も見に行けませんし、練習や調整もあるので街中で歩くのも制限されます。もちろん競技で最高のパフォーマンスをして、4年に一度の舞台で優勝することが目標なので当然のことです。だからと言って、競技者にとってオリパラを特別なものにし過ぎてしまうとあまり良いパフォーマンスは出ないと言われています。オリパラをご覧になる人にとっては4年に一度としてうつるかもしれませんが、オリンピアン・パラリンピアンにとってはそこまでの過程が毎日なのです。毎日オリパラの決勝を思い描いて練習をして、その延長がオリパラ本番なのです。そのスタンスでいかないと緊張してしまって本来のパフォーマンスが出ないのです。緊張しないために開催前にバルセロナに下見に行って交流試合をしたりもするのです。その時に私たちはまとめて観光をしました。
――選手にとってオリパラに出場するということはどのような意味合いがあるのでしょうか
ゼッターランド氏 その選手にとって初めてのオリパラという人もいるでしょうし、何度目の人もいるでしょうし、前回大会のメダルの有無によっても変わってくると思います。私の自分の中でのオリンピックの位置付けというのは、まず非常に幸運なことに自分が打ち込めるバレーボールというスポーツがあります。そしてそれを突き進めていくことが世界の頂点を目指すということで、自分でも気づかない可能性を引き出してくれました。一つのものを突き進めていくことで得られるものがある、だからオリンピックを目指していきたいと思いました。未知のところに向かって歩いていくということに、もちろん不安もありますが、ドキドキ感や期待、他国の人や文化に触れて、単なる競技大会だけでは終わらせたくないのがオリパラだと思います。
――バルセロナオリンピックでメダルを獲得した次大会がアトランタオリンピックでした。バルセロナオリンピックでは夢のようだった感覚はアトランタオリンピックでは変わりましたか
ゼッターランド氏 それは変わりました。2回目のオリンピックは本当に現実的でした。自分にとって一番規模の大きい大会がオリンピックで、その他にクラブチームなどでも大きな大会を経験していますが、アトランタオリンピックほど地に足が付いて落ち着いてゲーム運びができた大会は18年間の現役生活を通じても珍しい経験でした。バルセロナオリンピックの時とは正反対です。しかし自分が納得いくパフォーマンスができたからといってメダルに直結するわけではないというのがオリンピックの面白いところでもあり、厳しいところだと思います。
――自分が納得いくパフォーマンスでも結果が出ないこともあるのですね
ゼッターランド氏 恐らくほとんどがそうでしょう。私は世界選手権では優勝した経験があるのですが、その時には最終的な結果が出たので良かったのですが、最高のパフォーマンスができたわけではなかったのでどこか納得がいきませんでした。連覇を目指す人や勝っているのに何度も世界にチャレンジしているアスリートがいつの時代も多くいるのは、恐らくそういうところなのではないかと思います。
成熟社会でのオリパラが残すレガシーとは
パネルディスカッションに先駆け講演する間野教授
――それでは時代をさかのぼりまして1964年の東京オリパラについて伺いたいと思います。宮内先生は当時大学1年生ということでしたが、当時の日本の盛り上がりはいかがですか
宮内教授 社会の盛り上がりについては大学1年生でしたのであまり分かりません。それでも当時の日本はまだ発展途上国だった時代だと思います。東海道新幹線と首都高速道路が開通したのも東京オリパラのために整備されたものでした。インフラの部分で大きく発展しましたので、オリパラが東京に来るということを国民は大いに歓迎し、先進国になるという期待感で迎えました。記憶はあいまいですが、東京オリンピックの開会式で建設大臣としてインフラ整備に関わっていた河野一郎氏(大12政経卒)が演説をしていたというのは、いま思うと考えられないことです。そういう意味では2020年は成熟社会でのオリパラがどうなるのかというのが大きなテーマになると思います。前回のオリンピックの開会式が行われた10月10日は、特異日と言って当時一番晴れる日という気象庁の判断でした。つまり日本が開催日程を決めることができた時代でした。いまは7月開催で、ほとんどのオリパラが真夏に開催されています。なぜでしょうか。一番スポーツに適しているのはその国の春か秋なのにも関わらずです。おそらくオリンピックにお金の問題があるのでしょう。
――1964年の東京オリパラと2020年の東京オリパラではどんな違いがあるのでしょうか
間野教授 発展途上国に有形のレガシー(遺産)を残すのと先進国家に無形のレガシーを残すという違いがあると思います。季節の問題ですが、7月の真夏にトップアスリートを昼間に屋外でプレーさせるというのは、熱中症の危険性もあるので本来であればもう一度10月10日の日本の一番良い季節で競ってもらうのがベストでした。しかし現在は世界の一流アスリートのカレンダーを調整できるのがこの期間しかありません。商業式と言いますが、世界の最高を集めて最高の大会にして、スポンサーを集めて、視聴率を稼ぐ。やはりお金の問題なのです。日程の変更はもう間に合いませんが、オリンピックの原点回帰をして、何のためにオリパラをやるのかを考えなくてはなりません。本来であればオリンピックは4年に一度のオリンピックムーブメントが最高潮に達する競技大会とされています。オリンピックムーブメントとは、オリンピズムという考え、哲学を世界に普及することです。オリンピズムとは、心身精神ともに優れた人類の手本となるような人物、世界の模範的な市民に4年に一度集まってお互いの努力を確かめ合うのがオリンピック競技大会であるということです。勝ち負け、メダルの数ではない、もう一度原点に戻る2020になってほしいです。
――宮内先生は当時オリンピックとどのような接し方をしたでしょうか
宮内教授 私は競技者ではありませんので、一人の国民としてオリンピックと向き合ってきたというのが印象です。私が大学1年生の時に1964年の東京オリンピックが開催されました。当時、早大戸山キャンパス記念会堂がフェンシングの競技会場になりました。ですから早大はオリンピック期間中、他大学にはなかった1週間の休校がありました。私はなんとかスポーツに関わりたいと思い、国立競技場の中でアルバイトをしました。ですからアベベ・ビキラ(エチオピア)が哲学的な顔で走って来てゲートをくぐったシーンも見ましたし、青空に描かれたオリンピックのマークも見ました。それから棒高跳びが5メートルを超えて夜遅くまで永遠に競技が続いた時に観衆が帰ってしまったため、アルバイトもスタンドの中で最後の最後まで棒高跳びの決勝を見ました。いろんな思い出がいまでも残っています。そして2020年に東京オリパラが決まりました。ひとつ寂しい話ですが、私の同期で1964年当時聖火の最終ランナーを務めた坂井義則(昭43教卒)が亡くなりました。昨年12月の早稲田駅伝in国立競技場で坂井にもう一度聖火台に火をつけさせました。坂井はその時すでに体調が悪かったのですが、良い思い出になったと言っていました。このように多くの人が常にオリンピックと自分の人生を重ねて生活しています。
――1964年東京オリンピックで早大戸山キャンパス記念会堂(記念会堂)がフェンシングの会場になりました。恐らく大学では唯一だったと思います。その当時、早大生に残したレガシーというものはどんなものでしょうか
間野教授 前回大会でフェンシングの競技会場になったことをいまの学生の多くは知りません。早大生に何を残すのも大事ですが、先日ハンガリーの使節団で、1964年にフェンシング競技に出場した方が記念会堂を訪れました。彼らにとってその地は本当に思い出の地で青春の場所なんですね。それで自分の名前が刻まれた記念碑を見てポロポロ涙を流して感激していたと言います。学生に何かを残すのもあるのですが、早大は世界の大学を目指していますので、今回のオリパラでももっと大きく構えて早大生以外の人にも何を残せるのかを考える必要があると思います。
宮内教授 記念講堂は建設から75年が経ちました。体育各部のOBの寄付などで建てられましたが、東日本大震災もあってもう寿命です。2020年では競技会場としての使用は難しいかもしれませんが、練習場としては使用できると思います。国のお金で建て替えられたら良いとも思っていますが、それは別にして新しい建物で新しいスポーツをしてほしいという気持ちがあります。記念講堂の建て替え自体は理事会で決定しています。
(聞き手 高柳龍太郎、藤川友実子、編集 佐藤裕樹)
【続く】2020年東京オリパラを考える(2)
パネルディスカッションで語る有識者ら
◆宮内孝知教授(みやうち・たかのり)(※写真右)
1944(昭19)年5月20日生まれ。埼玉・浦和高出身。前早大理事(スポーツ振興・競技スポーツ担当)。スポーツ科学学術院教授。スキー部長。早稲田スポーツ新聞会会長。
◆間野義之教授(まの・よしゆき)(※写真中)
1963(昭38)年12月2日生まれ。神奈川・横浜緑ヶ丘高出身。横浜国立大教育学部卒。2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織員会参与。スポーツ科学学術院教授。柔道部長。レガシー共創協議会会長。
◆ヨーコ・ゼッターランド氏(※写真左)
1969(昭44)年3月24日生まれ。東京・中村高出身。人間科学部卒。2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織員会理事。嘉悦大学准教授。嘉悦大学女子バレーボール部監督。元米国女子バレーボール代表。バルセロナオリンピック銅メダリスト。
★無口なGLOBE応援団「が~まるちょば」登場!
世界を股にかけるサイレントコメディデュオの無口なGLOBE応援団「が~まるちょば」が記念講演会の盛り上げにやってきた。学生が壇上に上がりが~まるちょばとふれあう機会もあり会場は大盛り上がり。世界が認めるパフォーマンスに酔いしれた。会場を訪れた人からは「独特の世界に引き込まれ、時間があっという間に感じた」と感想を述べた。
無口なGLOBE応援団「が~まるちょば」
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【課外活動】未来につながるレガシーを!2020東京オリパラを考える(詳しい講演会の模様はこちらから)
早稲田大学競技スポーツセンター公式サイトより(※1)
ハンガリー オリンピック委員会の一行が 「早稲田大学 記念会堂 (戸山キャンパス)」を来訪 (10/13)
http://waseda-sports.jp/news/42445/(外部サイト)