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2014.07.04

【連載】創刊500号記念特集 最終回スケート部OG荒川静香氏

 早稲田スポーツ新聞会は7月1日に『早稲田スポーツ』創刊500号を発行しました。それを記念して早大スケート部OGでトリノ五輪フィギュアスケート女子個人金メダリストの荒川静香氏(平16教卒=宮城・東北)にインタビューを行ないました。今回は、荒川氏に行ったインタビューの全文を掲載します。知られざる荒川氏の秘話に注目です!

※この取材は5月9日に行われたものです。

早稲田スポーツ創刊500号の一面

「早大への進学 後悔していない」

――当時の荒川さんはどういった学生だったのでしょうか

普通の学生でしたね。高校がアルバイト禁止の学校だったので、卒業してからすぐアルバイトを始めました。スケートをメーンにずっとそれまでやってきたので、社会との関わりを少しでも持った大学生活にしないと、社会に出るうえで少し不安だなと思っていました。いま思えば、アルバイトをしたことは非常にいい社会勉強になったなと思います。

――具体的にはどのようなアルバイトをなさっていたのですか

色々やりました。コンビニとかファーストフードとか3、4個やりましたかね。人に対して笑顔を振りまくのがすごい苦手で、表現力も乏しいタイプの選手でした。しかし人と接する機会が増えて表情や言葉の一つ一つが大事なんだなというのを学びました。それがスケートに生きた部分も少なからずあったとは思います。生活の中にたくさんヒントが隠されていて無駄だと思ってやり過ごせば無駄なことになってしまうけれど、そこから何か学ぼうと思って携われば考え方次第で身にできるんだなと実感しました。

――一人暮らしを始めるにあたって不安はありませんでしたか

一人っ子で常に親の目の届くところにいたので、不安より楽しみの方が大きかったです。一人暮らしに対しては親の方が心配をしていましたね(笑)。女の子が東京という親の目が届かない場所で一人暮らしをしてスケートをやって、さらに学校に行ってですから。良い結果を残せば親が安心するので、自分を奮い立たせるためにはいい緊張感につながったのかもしれないです。

――4年生のときにはフィギュアスケート部門の主将を務めていらっしゃいましたが、主将として特に意識していたことなどはありますか

部員が多くなかったので主将という意識はあまり強くなかったですね。スケート部の総合主将はホッケー部門にあったので、フィギュアスケート部門の主将としてやるべきことといえば、たまに集まって飲んだことくらいですね。スケートの話というよりかは学校生活のことについて主に話すことが多かったです。主将になったのも私が同学年で一人しかいなかっただけなので(笑)。

――専用のスケートリンクを持たない早大への進学は競技を続ける上で不安な要素ではありませんでしたか

大学を卒業した後もスケートを続けるかどうか考えていませんでしたし、とにかく生活の中でのウエートは学業の方に比重を置きたいと思っていたのであまり不安はなかったです。卒業をしたらどこか企業に就職をしなければとも思っていました。なので不安というのはなかったですね。

――早大に入って得たことの方が大きかったということで、後悔はしていないということですね

はい、いろんな人と出会ってコミュニケーションを取って自分自身の経験値を上げていく上では大切な選択だったかなと思います。

――卒論ではスポーツとマスコミの研究をなさったということですが、具体的にはどういったことをやったのでしょうか

まず自分自身が長野五輪に出たあたりとかでメディアと接する機会が多かったです。アスリートから見たメディアと実際にメディアの人から話を伺ってどういう風にスポーツを扱っているのかというか色んな視点から卒論を書けたら面白いかなと思いました。あとは、メディアの歴史とかどのようにスポーツを扱うようになったのかというマネジメントとメディアとスポーツの関係とか色んなことが掘り下がっていくと面白く見えてきたので、自分がやってきた経験を踏まえてできるならそれが一番いいかなと。それでスポーツと絡めることにしたんです。新聞学のゼミだったので何かしらマスメディアに関してだったんですけど、一番やりやすいテーマというか経験を基に書いていけるというのは自分に合ったテーマだったかなと思って選びました。

――卒論を通してご自身とマスメディアとのインタビューなどに変化はありましたか

ありましたね。自分から歩み寄るようになりました。スポーツとメディアを客観的に位置付けて見ることで、メディアというものを捉えられるようになったと思います。それまではこちらからメディアに対して接しようとする機会がなかったので、すごくいい機会になりました。将来自分がメディアの関係に就きたいなと思い始めたのが大学時代だったので、違う形ではありますが、いま伝えるという職に就けてすごく嬉しいです。やっぱり希望通りに働けることってなかなかない時代だと思うので、すごく幸いだと思います。しっかりと学生時代に学ぼうとして学んだことも自分にとって役に立っていると思いますし、アスリートに必要なこともやっていて見えてきました。

――ソチ五輪でのキャスターのお仕事にも生かせたのですか

そうですね。キャスターのお仕事をいただけるのは稀なことというか幸せなことだと思うのですが、それもバンクーバー五輪のときに一度経験させていただいて、それを生かしてソチ五輪につなげられればと思っていました。せっかくやるのだから競技経験者としての目線も生かしてやれればいいなと思っていました。ただ、難しさもあるんですよ。元選手だからこそ、ここは踏み込んでほしくないていうのが分かってしまいます。分からなければ踏み込んでいって選手に嫌だなと思われても踏み込んだ取材ができるんですけど、私は一歩引いた取材しかできません。逆に一歩踏み込めることもあるんですね。選手が気を許してくれる部分というのも選手だったからこそあると思います。一般的に知らないからこそ踏み込んで嫌な思いをさせたとしても、取ってきちゃえば仕事としては勝ちかもしれません。それでも私が分かっているのに踏み込んでしまったら私がやる意味がないと思うので、また自分には違ったやれることがあるんじゃないかと思うので葛藤することもあります。

――解説者として上からリンクを眺めるようになって見える景色は変わりましたか

これまで自分が戦っているときというのは、自分の演技だけに集中しているのであまり周りの選手がどういうことをしたのかは知り得ないんですね。点数が出る、順位が出る、ああこういう演技をしたんだなって想像で周りの選手が自分の順位に納得をつけていました。全部の試合を外から競技として見ていくと、駆け引きなんかも見えてくるので非常に面白いですよね。でも、一人一人見ている時間が長くなればなるほどその選手がどれほどのプロセスを踏んでそこに立っているかがわかるから思い入れも強くなってきますし、バックグラウンドを知っているからこそストーリーがあるなと思っています。だからスケートを好きになってくださった方には多くの選手のバックグラウンドもリサーチしながら見ていただけるとより楽しめますよと言っています。目の前で起こっていることのすごさよりも、その選手がどういうプロセスを踏んでこの舞台に立って戦っているのかは一人一人違うので、それは知って見ていただくのと知らずに見るのとだけではだいぶ違うのではないかなと思います。そういうところを私たちはテレビなどのメディアを通じて、こんなふうに戦ってきているのを見てくださいというご紹介をしたりとかしたいです。見れば選手たちが戦っている技の難易度とかはわかると思うので、ちょっとした情報を交えながら見せていくことによって、より見る人の楽しみを伝える興味を持つきっかけになってくれればいいなと思います。そうやっていまはお伝えをしています。

――今回はソチ五輪で羽生結弦選手(人通=宮城・東北)が金メダルを取られました。同じアイスリンクで育ち、東北高校、そして早大ということで、そういった同郷のお話をしたことはありますか

直接ゆっくり話すチャンスがあまりないのですが、ただ仙台でスケートをやってきた羽生選手が小学生時代に五輪で金メダルを取っているのを見たのが私なので、すごくそれに影響を受けたというのは言っていました。地元の近いところから金メダリストが出たということに関して自分も取りたいという意識が現実に湧き上がるきっかけにはなったみたいですね。進学先というのも、彼のお父さんが学校の先生だからこそ、文武両道でやってきた私にも影響されたんじゃないかなとは思います。私はだいぶ時間をかけて回り道もしましたけれど、羽生選手は行けるところに最短で上り詰めた選手です。それは明確に歩みたい道が見えていたからというのがあるかもしれないですね。

――その羽生選手をことしの新入生歓迎号にて一面で扱わせていただきました。実は奇しくも10年前の同じ新入生歓迎号で荒川さんを一面で扱わせていただいているのですが、当時の早スポ部員からの取材の記憶は残っていますでしょうか

早スポの存在は知っていましたけど、この時だったかはちょっと(笑)。当時はトリノ五輪を目指すと思っていなかったので、たぶんもう学生としての残りの一年とかの抱負とかを言っていたんじゃないかなと思います。将来の目指すものについてもスケートのことではなかったとは思いますね。

知られざる苦悩

「(トリノ五輪について)伝える側として携われればいいなと思っていた」という荒川氏

――ちょうどトリノ五輪のときに当時の現役部員が観戦に行ったのをご存知ですか

へえ、すごい!いまほどの認知度じゃなかったのに現地まで来るのは珍しいケースですね。

――大学卒業と同時にプリンスホテルさんに就職なさいましたが、差し支えなければ具代的な経緯などをお教えください

最後の試合だと思って臨んだ試合が2004年(平16)の世界選手権だったのですが、そこで優勝することができました。その結果をきっかけにトリノ五輪でもメダルを狙えるんじゃないかみたいに周りがなって、自分の中で迷いみたいなものがあったんです。プロに行きたいという気持ちがあって、アマチュアに残っても五輪を目指す理由が自分の中には見つかりませんでした。ただあまりにも自分の近親の人たちも五輪までやった方がいいよと言う。誰か一人でも引退してプロになったらと言ってくれる人がいれば、プロになっていたと思います。でも、アマチュアとしてやるならばどこかに所属する必要がある。ちょうどそのときに競技者として所属先に困っているんだったら引き受けると言ってくださったのがプリンスホテルさんだったので所属契約を結ぶことになりました。ただ、自分の気持ちに迷いがあるからエントリーした試合に出ても自分の思うような滑りにならず、結果が出る試合があっても自分がやりたいと思って向き合っているわけではないのでやっていても充実感がなかったです。地に足が着いていない状態が一年くらい続いて、私はいままで何をしていたんだろうと落ち着いて考えた時に、せっかく長くやってきたスケートを締めくくるチャンスだったのに自分自身がそれを潰してしまった。ならば、もう一回結果とかそういうものではなく、スケートと向き合う気持ちを前面に出してやり切りたいという気持ちがようやく出てきました。その一年は何をやっても何の充実感もない。自分が本当にやりたくて向き合っているのかがわからない。でも、時間は止まらない。目の前にきた試合にはなんとなく出る、というような状況に辞めとけば良かったなという気持ちとこれでいいんだろうかという気持ちといろんな迷いばかりがあった時だったので、すっきりしたいというのはありました。どんな結果が出ようとやり切ったと思える過ごし方をしてからスケートを締めくくるという気持ちになるまでに一年かかりました。

――その期間は自分がパラヴェーラの中央に立つとは想像できていなかったと

一年やっていても前のシーズンの世界チャンピオンとして注目されて、当然次の五輪のために準備しているんだろうと捉えられる。でも、私は全然五輪になんか向かっている気持ちではない。まあ学生時代に来る五輪であれば自分自身が狙う五輪の年代かなと思えても、卒業して2年ってなるとそもそも社会に出るために選んだ大学なのにまだやっている、イコール社会に出そびれているという気持ちがありました。伝える側として携われればいいなと思っていたのがトリノ五輪だったんですね。自分が一度五輪を長野で経験したことを生かしながらアスリートとしてやっていた経験も伝える側として携われればいいなと思っていました。そのためにどこかに就職しなければいけないなと思っていたので、就職をせずにスケートをやっていることにすごく無力感みたいなものがありました。でも、もう自分がその道を歩んでしまったからとにかくやり切るしかないなと思ったのが悩み始めてから一年後でした。そこからは五輪シーズンに入ったから五輪を目指してスケートを終わりたいなと思うようになりました。それがまあゴールが五輪にならないかもしれない。その前で終わってしまうかもしれない。自分がどんな結果を残せるかもわからず、行ける保証もない中で目指していったシーズンだったので、自分の次の世代の五輪という印象がほんとにずっと強くありました。

――そういった葛藤に加えてルール改正もあったということですね

ルールに関しては、そのルールの中で勝ち残れなければ自分の運命だから仕方がないという気持ちがありました。ルールが自分に合おうと合うまいと変わるものではなくて、自分が変わらなければいけません。やるからにはルールに則った選手にならなければいけない。もちろん習得しなければいけない技もたくさんありましたし、スケートの概念を変えていかなければいけない部分もたくさんあって、もっと若ければ順応性があるのでルールが変わったからじゃあ自分も変えていこうとすぐにできるんですけど、これまでいいとされてきたことがきょうから評価されない。逆にこれまで良くないとされてきたことが評価される感じだったので、それまでの概念を覆すまでには時間がかかりました。でも、戦う土俵は一緒なので、やるかやらないかしかないんですよね。やりたいかやりたくないかの選択肢ではないんです。もうやると決めたことに関しては徹底的にやることを目指して、それでもできないならしょうがない。やらずしてやりたいやりたくないと言う資格はないなと思っていました。そのルールに関しては、なぜトリノ五輪まであと一年というときに変わってしまうんだろうと思いましたけど、思っても変わってしまったものはしょうがないので、どれ程自分ができるかという試す機会にもなりました。そうやってチャレンジしたからこそできるようになって技もあって、ルールが変わらなければバリエーションに富んだ選手になれなかったと考えると、あのときルール改正があったからいまのプロとしてのスケーター人生も伸びたんじゃないかなと思います。

――トリノ五輪後にプロスケーターに転向なさって始めたフレンズ・オン・アイスというスケートショーもことしで8回目となりました

これまで一緒に戦ってきた選手たち、つまり戦友ですので『フレンズ』という名前がいいのかなと思って付けました。自分がプロとしてやっていく報告をリンクの上でする意味合いのショーが、ご好評頂けたので次の年の開催も決まり、また次の年も、というように気がつけば8回続いているという感じです。

次の舞台へ

「目標を高くもって、そこに向かって全力投球してみてください」と語った荒川氏

――荒川さんが幼少期に見て記憶に残っている五輪の名場面はありますか

私が物心ついたときに最初に見たのが、鈴木大地さんとか岩崎恭子さんの金メダルで、日本人の選手が世界の頂点を極めるんだ、すごいなと思いました。私自身も水泳をやっていて、それも岩崎恭子さんが他の選手より年齢が近かったので当時はすごいなと思って見ていました。それはすごく印象に残っています。

――2020年時にどういった目標をもって活動していきたいですか

スケーターとしては毎年ことしが最後という気持ちで全力投球していきたいと思ってやっているので、いつが最後になるのか分かりません。まあ結婚をして子どもが生まれたら子育ての方で学んで新たなチャレンジをして6年を過ごせたらいいなと思います。たぶんいま大学生の方々が一番いい年齢を迎える競技がたくさんあると思うので、早大のOB・OGからまたオリンピアンが出る可能性があれば、どんな方々が活躍するのか楽しみにしたいです。またそれによって子どもたちがスポーツに興味をもって、向き合うことを見つけられるといいなと思います。スポーツを通じて、やりがいを持てるものと出会える子どもが増えるといいです。また五輪を通じてもっと震災復興に力が入ればいいなとも思います。それによって世界が目を向けてくれてあの出来事を忘れないようなことにつながるんじゃないかなと思いますし、東京五輪・パラリンピックが成功するには復興も進んでいないと成功とは言えないと思うんですね。そこが置いてきぼりになってしまうとその地域の人たちが素直に東京に、日本に五輪が来ることを喜べないでしょうし、だからそこをうまく力を注いで東京五輪・パラリンピックが成功と日本中が感じられるような五輪になることを願っています。

――創刊500号を迎える早稲田スポーツ新聞会にメッセージをお願いします

こうやってずっと続けることができるのも、その世代その世代での努力があってこそだと思います。口で言うのは簡単ですが、継続して500号にたどり着くことができ本当におめでとうございます。今後もぜひ次の世代の育成に励んでいってください。

――最後に現役早大生にエールをお願いします

少しでも目標を高くもって、そこに向かって全力投球してみてください。大学時代というのは、自分の人生について一番考える時期だと思うんです。一見無駄に見えることでも、自分の糧にしようと思えばいい経験になるので、学生の間に自分の将来の財産になる経験をたくさんしてほしいと思います。

――本日はありがとうございました!

(取材・編集 小川朝煕)

◆荒川静香(あらかわ・しずか)

1981(昭56)年12月29日生まれのO型。宮城・東北高出身。教育学部社会科社会科学専修卒。プリンスホテル所属。トリノ五輪フィギュアスケート女子個人金メダリスト。紫綬褒章受章。先月末に米国・ハワイで結婚式を挙げた荒川さん。改めてご結婚おめでとうございます!

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